東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
1年11か月10日です。
2013年2月21日(木)
3月主題 「
ありがとう」
3月主題聖句
光の子として歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙5章8節
讃美歌 讃美歌21 490番
聖書研究 エフェソの信徒への手紙5章6〜13節
5
6むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
7だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
9ーー光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。ーー
10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12彼らがひそかに行なっているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
〈ありがとう〉
光の子として歩みましょうという勧めは、自己中心的な考えで生きるのではなくすべての人の幸せを願って生きましょうということです。
この聖句が語っていることは性道徳のことですが、幼児に向けてと考えるなら上のように広く解釈するべきでしょう。性道徳に関しても自己の快楽だけを求めるのでなく他者の人格や尊厳に関心を払うべきことが勧められているからです。
「むなしい言葉」(6節)とは多く人たちが抱いていてる価値観の中で、自己本意な考え方のことです。性道徳でいうならば人から咎められることがなければ好きなことをした方がよいとする考え方です。自分が望むことをしても何も損をすることがないなら、良心が咎めたりすることをくよくよと気にするなんて馬鹿げているという感じでしょうか。
この自分が持つ良心や他人の痛みに関心を払うことをしない、あたかもあるのにないかのように振る舞うことを「暗闇」の中にいると語っています。暗闇にいれば見たくないものを見ずにすみます。
「光」は全てを照らし出します。それは週刊誌のように暴くことではありません。ここに関しては暗闇にいる場合と同じで人前にさらけだされることはありません。「光」が照らしだしたものを見るのは神様と自分だけです。自分の良心が傷んでいることや他者が傷んでいることが否応なく目に入ってきます。
「暗闇」の中か「光」の中かどちらを歩むかはそれぞれの人に委ねられています。
これは私個人の解釈ですが、この判断を「損か得か」でもなく「正しいか間違っているか」でもなく「幸福か不幸か」で選んでその上で「光の子として歩みなさい」と勧められいると思います。
幸福とは満ち足りている状態を指します。損をしても間違っていても、何も自分に偽ることがないことを神様は望んでおられると思います。
主題の「ありがとう」は「有り難し」ということばが感謝を表す言葉として定着したものです。ありがとう、とは、特別なことをしてもらった、と伝えることです。「有り易し」つまり当たり前だと思えば感謝の気持ちは生まれません。
私たちは耐え難い困難を抱えた人たちや自分の心の中にある一部分を暗闇におくことで不平や不満を抱えます。光に照らされて見えるものをしっかりと見るならば、当たり前のことだと考えられるようなものはほとんどなく特別なことに満たされていると気づくことでしょう。そうして感謝の気持が生まれ「ありがとう」という言葉が出てくるのだと思います。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988