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Posted by チェスト at

2013年08月25日

聖霊降臨節第15主日〈究極の希望〉。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年5か月14日です。
2013年8月25日(
聖霊降臨節第15主日
コリントの信徒への手紙一15章35〜52節

〈究極の希望〉
 死者の復活について具体的に知ろうとする人たちにパウロさんは「愚かな人だ」とずいぶん辛辣な言葉を投げつけています。復活の希望を今人が見ているものや手にしているもの理解しているものと同じように、見ようとし手にしようとする、理解しようとすることはパウロさんには愚かなことだったようです。

生物としての命をはじめ人が与えられたものは衰えていきやがて尽きてしまいます。復活の希望は朽ちていくものに代わって朽ちないものを与えられるとの希望です。ただ、ある時点で箱にリボンが付いたプレゼントのように渡されリボンを解き包装紙を破って箱を開けると出てくるというようなイメージとは違います。プレゼントをもらいために競って正しく生きようとしているわけでもありません。だからプレゼントは何だろうと心配しても仕様がありません。

私たちが分かりやすく価値あるものの代表はお金です。だからお金を得ようとしますし持っているお金は大切に持っていようとします。しかし、お金を差し出す価値のあるものと出合った場合はお金を手放します。そして手放したお金がどうなるのだろうと心配する人はいません。

朽ちていくことには理由があります。それは朽ちないものを身につけるためです。朽ちていくことは私たちが手にしているものを手放すことです。それは経済力や健康や仕事でもあるでしょう。けれどもただ手放しているのではなくて神様からもっと良いものを示されるからこそ手放します。畑に種をまくように手放します。

人は生きていく中で、自分の命も惜しくないと思う時が与えられます。そこまででなくても大きな犠牲を払ってもかまわない、深く傷つく覚悟があるとの思いを与えられることがあります。神様が私たちの目を開かれあることがらをとても価値あると示されるからです。こうして神様から与えられた朽ちていくものを差し出しまた神様から朽ちないものを得ています。復活の希望はすでに進行していることがらです。

朽ちていくなかも惜しくはないとの思えるのは神さまに示されすでに希望が与えられているからです。そして完全に朽ち果て世の終わりが来たときに世界は朽ちることのないもので満たされるとの希望が待っています。今、ただ朽ちていくだけで先にしか何も希望がないなどと言えば、また先にあるはずの希望をはっきりと示してほしいと願うならばそれは愚かなことで、きちんと朽ちていく歩みを振り返ってみるなら神さまが示してくださった希望がありこの希望が終末の希望へと続いていくことが信じられる、と語られているように思います。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 22:58Comments(0)礼拝式報告

2013年08月19日

聖霊降臨節第14主日〈忍  耐〉。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年5か月7日です。
2013年8月18日(
聖霊降臨節第14主日
ローマの信徒への手紙8章18~25節

〈忍  耐〉
 現在の苦しみは将来現される栄光に比べると取るに足らない、とパウロさんは言います。

 将来すばらしい物を手にするためなんだから今苦しんだほうがお得です、こう受け止めるとなんか得をしたいから信じるみたいでどうかと思いたくなります。

 こう考えてみるとどうでしょうか。私たちは神様からいただいたものをしっかりと手にして放さないでいる、そのことで耐え忍んでいると。手放さないでいるものは、今それが何なのかはっきりとは私たちには理解できません。

 こうして忍耐している人には希望があります。それはその人が耐え忍んで手放さいでいるものがどんなにすばらしいものであるかを将来神様が私たちはっきりと分かるように示してくださることです。苦しくても手放さないで良かったと心から思える日がきっときます。

 たとえば神様は一人一人に違った個性を与えられます。また願い(祈り)を与えられます。自分らしさを失わず生きるよりその場に合わせたほうが楽なときがあります。心からそう思える願いを持ち続けているときも、それをあきらめたほうが楽なときがあります。でも苦しくても自分らしく生きる、心から思える願いを持ち続けて生き続けば、神様がいつの日か、その人が手放さいでいた自分らしさや願いがどんなにすばらしいものであるかをはっきりと示してくださると信じるなら、大きな希望となることでしょう。

 人が耐え忍んでいるなら、それだけのものを、いやそれ以上のものを神様は人の手に渡されたということです。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 11:28Comments(0)礼拝式報告

2013年08月11日

聖霊降臨節第13主日〈家  族〉。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年5か月です。
2013年8月11日(
聖霊降臨節第13主日
コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

〈家  族〉
 妻と夫、子と親、奴隷と主人という関係が書かれています。これら役割は相互に補い合う関係です。妻に対して夫が、子に対して親がいるわけです。妻や子の存在がないなら夫や親という役割も存在できません。そして六種の役割の者にそれぞれ勧めがなされています。妻には夫に仕えるように、夫には妻を愛するように勧められています。

 この勧めはどのように伝えらたかという場面が重要です。ドラマのワンシーンのように想像してみてください。この勧めが二人を呼び出して伝えられたと想像すれば、たとえば妻は自分への勧めだけではなく夫の勧めも知ることになります。その逆もそうです。

 あともう一つ想像してみましょう。それはひとりずつ部屋に呼び出してその人への勧めをその人だけに伝えるとすれば、互いに自分だけの勧めを知っていますが相手がどのように勧められているのかは知りません。この想像は聖書全体をどう受け止めるかにも当てはまる知恵があります。勧めは神さまがある人にその人だけに向けてその人にふさわしく語られる、この状態にまでみ言葉を味わうことがみ言葉に聞くことではないでしょうか。

 相手が守るから自分も守るというのでは人と人がかわす約束です。相手がどうであろうと自分は守るというのが神さまとの約束です。相手がどうあろうと一方手に向けられるのが神さまの愛です。

 六種の役割が出てきますが、夫と父親と主人が同一人物とすると四人の人が出てきます。この四人に勧めが与えられていますが、どうのように勧められたようにするかのヒントのようなものが書かれています。「主を信じるものにふさわしく」「主に喜ばれる」「主を畏れつつ/主に対してするように」「あなたがたにも主が天におられるのです」等です。

 主の家族は相手の出方に左右されるような約束でつながってはいません。相手がどうあろうと主が勧めてくださったから主が私にしてくださったように進めに従い愛することでつながっています。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 17:24Comments(0)礼拝式報告

2013年08月05日

聖霊降臨節第12主日/平和聖日〈苦難の共同体〉。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年4か月25日です。
2013年8月4日(
聖霊降臨節第12主日
平和聖日
使徒言行録20章17〜35節
 2017パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。18長老たちが集まってきたとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかはよくご存じです。19すなわち、自分を全く取るに足りないものと思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。20役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。21神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。22そして今、わたしは、〝霊〟に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。23ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。24しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この生命すら決して惜しいとは思いません。
 25そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。26だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。27わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。28どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。29わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。30また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。31だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。32そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。33わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。34ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。35あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

〈苦難の共同体〉
 「苦難の共同体」と本日の主日は決められています。皆が苦難を持ち寄って集まってくるなんて何か暗いイメージを持ってしまいます。私は苦難を持ち寄ることは神さまに支えられる明るさがあると信じます。
 パウロさんはミレトスから船出する前にエフェソに人を使いに出してエフェソの教会指導者何人かをミレトスに呼び寄せます。50キロ程離れているそうですからずいぶんと迷惑な話です。そこまでして伝えたかったことの一つは、パウロさんがエフェソで自分が出来る限りのことをしたからあとは神さまとエフェソの信仰者、特に呼び寄せた指導者に委ねるということです。自分には負うべき責任は何もないというほどやりきったと言い切っています。指導者たちは大きな責任を負わされることになりました。
 一方でパウロさんはエフェソの教会に外側からと内側からと乱す者が現れて混乱すると予告しています。責任を追わせながら良い結果にはなりませんよ、と予告することにどのような意味があるのでしょうか。実はここに伝道の大切な点が表されていると思うのです。努力をするのに結果出ない、これはまさに苦難です。報われる努力は苦難とまで言うこともないでしょう。
 私たちは生きていく中で、大切なことだからと思い、あるいは神さまの導きを感じるから、心の底から強く願っていることだから、このような理由で何かに取り組みます。しかし目に見えては良い結果を得られない、こんなことがあります。そしてこのようなことが続くのは苦しいです。でも、よく考えると本当に大切だと思えることや、神さまの導きだと感じられること、心の底から願うことが、そうそう簡単に得られることでしょうか。このようなことに出会うことがすでに恵みです。そして神さまはきっと寄り添ってくださっています。せっかくそうそう得られない恵みをいただいたのに、目に見える結果が出ないからと言って捨ててしまうのは残念なことです。
 苦難を持ち寄る共同体、それは神様からもらった困難ではあってもすばらしい恵みを持ち寄る共同体です。イエス様も私たちが罪ゆるされて生きることを願われ結果は十字架に釘打たれ殺されました。それでもイエス様は最後まで神様からいただいた恵みをしっかりと持っておられました。


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この日は平和聖日でした。
昨年、一昨年は特に何もできませんでしたが、今年は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」をし九州教区が送ってくださったリーフレットより交祷を用いることができました。にっこり

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 10:24Comments(0)礼拝式報告

2013年08月02日

聖霊降臨節第11主日。鹿児島地区交換講壇。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年4か月22日です。
2013年7月28日(
聖霊降臨節第11主日
コリントの信徒への手紙二4章16〜18節
 416だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18わたしたちは見えないものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

説教 「見えないものに目を注ぐ」 日下部遣志牧師(日本基督教団川内教会)


礼拝後、歓迎愛餐会をしました。


 この日は熊本地区交換講壇で川内教会より日下部遣志牧師をお迎えしました。
 また川内教会で夏期派遣実習中の柳本伸良神学生が礼拝に参加してくださいました。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 10:41Comments(0)礼拝式報告

2013年08月01日

鹿児島地区交換講壇。志布志教会礼拝。

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年4か月21日です。
2013年7月28日(
聖霊降臨節第11主日
使徒言行録9章26~31節
 926サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。27しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。28それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。29また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
 31こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

〈宣教への派遣〉
 教会がサウロさんを受け入れたあと、教会の基礎が固まったと書いてあります。サウロさんは幻でイエス様に出会うその瞬間まで教会を迫害し続けていました。イエス様に出会ったときも教会を迫害するためにダマスコに向かう途中でした。
 サウロさんが一番大切にしていたことは神さまと一緒に正しく生きることでした。具体的には聖書に記されている決まり(律法)を守ることです。サウロさんは教会が救い主として言い広めているイエス様を受け入れることができませんでした。イエス様は律法より人が大切だということを忘れてはならないと言われます。サウロさんは律法を守ることが何より大切で、律法にこだわらないことで人を大切にできるなどという発想は許しがたいものでした。
 人とは自分が好きなものを同じように好きな人とは気が合います。そうではない人とは気が合わない、こういうことがよくあります。サウロさんにとって教会は、自分が好きなものを大切にしていない人たちの集まりでした。
 一方で教会はサウロさんがイエス様に出会ったあと仲間に加わろうとしたときに、信じられずに恐れました。今のサウロさんの気持ちより今までのサウロさんの行動で判断したからです。それでもバルナバさんが熱心にイエス様に出会ったあとのサウロさんの行動を説明し仲間に入ることができました。ここに教会の基礎があります。
 平和を保つことは神さまに委ねることです。神さまに委ねることができず自分の考えにこだわると争いがおきます。サウロさんを仲間として受け入れることに賛否両論あったでしょう。最終的には教会の人たちは神さまに委ねました。そう思います。
 主を畏れることとは、主の働きが人間の想像できないほどだと信じることです。自分の想像の範囲に神さまの働きを見ている人は畏れの気持ちを持つことは難しいでしょう。あの迫害者サウロがキリストの僕(しもべ)になったなんて考えられない、と思った人は少なくなかったでしょう。それでも神さまにならサウロを導くことができると信じました。
 聖霊の慰めを受けるとは、人の慰めを超える慰めです。サウロさんが関わった事件で大切な人を牢獄に連れて行かれたり殺されたりした人は、サウロさんが仲間に加わることは大変な苦痛であったに違いありません。人の言葉ではもはや慰めることはできなかったでしょう。それでも聖霊は慰めを与えてくださる、との信仰がありました。
 サウロさんを仲間に加えたことは教会が、神さまに委ね、神さまの働きは想像を超えると信じ、人を超えたお方から慰めがあることを信じた(あるいはこのうようしようとした)ことが教会の基礎を固めたました。そして宣教がいよいよ進んで行きました。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
  


Posted by C3 at 08:23Comments(0)牧師日誌