聖書を学び祈る会。エフェソの信徒への手紙二章一〜十。

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2011年04月28日 06:12

東日本大震災発生
二千十一年三月十一日(金)から
一ヵ月十七日です。


四月二十七日(水)。

エフェソの信徒への手紙二章一〜十。
 1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に活かし、——あなたがたの救われたのは恵みによるのです——6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


感想。
 いつものとおり讃美歌を歌い聖書を読み信徒の友「日毎の糧」二十七日の箇所を読み感想を言い合って祈りました。讃美歌は五百三十二番を賛美しました。

 何もしなかったのに救いを得たと感じています。聖書に書いてあるとおりに昔は悪いこともしていたけれども今は落ち着いて過ごしています。

 救われるということが具体的にイメージできず分かりません。インマヌエル(神が共にいます)が救いなのかなと思うことはあります。救いは目に見えないものなので分からず戸惑うこともあります。

 高校一年生に受洗しました。そのときはよく分からずに受けたように思います。信仰が継承されていくことに導きを感じます。

 教会に行き始めて洗礼を受けるまでにかなり時間が掛かった。それが突然受ける決心をしました。長老の方たちが驚かれたほどです。受洗準備会のときに強い決心でないのでずっと神様が捉えてくださることを祈りました。
 炭火を起こすときには火種を大きな火にしていきます。火種があれば火をおこすことができるように小さなものだとしても信仰の火種を消さないように歩んでいきたいです。

 キリスト教の弾圧時代のことを思います。


 私はお話しを伺うことの良さを改めて感じています。



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