復活節第2主日。ルカ二十四・十三~三十五。〈復活顕現(1)〉

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2011年05月01日 17:11

東日本大震災発生
二千十一年三月十一日(金)から
一ヵ月二十日です。



詩編十六編一~十一節
....1ミクタム。ダビデの詩。
.神よ、守ってください。
...あなたを避けどころとするわたしを。

2主に申します。
.「あなたは私の主。
.あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3この地の聖なる人々
.わたしの愛する尊い人々に申します。
4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。
.わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず
.彼らの神の名を唇に上らせません。」

5主はわたしたちに与えられた分、わたしの杯。
.主はわたしの運命を支える方。
6測り縄は麗しい地を示し
.わたしは輝かし嗣業を受けました。

7わたしは主をたたえます。
.主はわたしの思いを励まし
.わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8わたしは絶えず主に相対しています。
.主は右にいまし
.わたしは揺らぐことがありません。
9わたしの心は喜び、魂は踊ります。
.からだは安心して憩います。
10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
.あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11命の道を教えてくださいます。
.わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
.右の御手から永遠の喜びをいただきます。


ルカによる福音書二十四章十三~三十五節
.13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだと分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じないのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイエスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
.26一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集って、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったこきにイエスだと分かった次第を話した。


〈復活顕現(1)〉
.本日の主題にある「顕現」という言葉は「はっきりと姿を現すこと」と辞書にあります。顕現と敢えて言われているのは、姿は現れているけれどもはっきりとしていない状態を考えてみるよう言っいると思います。

.わたしたちは初めて行く場所やたくさんの人の前で話すようなとき緊張して不安になります。そんなとき知っている人が側にいてくれると安心できます。姿をはっきりと見ることができると安心ですが、そうでない場合もあります。

.例えば入学試験には関係者以外は入ることが出来ません。またとてもたくさんの人の前に立つとどこに自分の知る人がいるのか分からないこともあります。こういったとき自分が頼る人の存在を感じる何かがあったり、姿を見つけることができなくともそこにいると知っていることが心の支えになります。

.二人のお弟子さんたちがエルサレムからエマオへと向かっているときにイエス様は二人の前においでくださいます。そして歩きながらイエス様に起こった出来事と神様のご計画について三人で話し合います。しかし二人には目の前にいるお方がイエス様だとは分かりません。聖書には「二人の目は遮られていて、イエスだと分からなかった」(ルカ24:16)と書いてあります。そうすると二人がイエス様だとは気づかずに側にいて話し合っていたことは神様の計らいでもあります。

.この時期、幼稚園では四月から新しく入園してきたこどもたちは不安な気持ちがたくさんあります。特に朝、お母さんやご家族の方と離れるときが一番不安になるときで泣いてしまうことも多いです。けれどもしばらくするお友だちや遊び道具などを見つけると泣くのをやめて元気に遊び出すようになります。お家の人がいないことを忘れているとも見えますが、忘れているのではなくて気にならなくなっていると言うべきでしょう。つまりお家の方は見えなくなったけれどもいなくなったわけではないと分かっているのです。でもお家の方の姿を目にするとまた不安になり泣き出します。いなくなったわけではなくても見えるところにいてほしいと再び思い始めるからでしょう。

.二人のお弟子さんは「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」(ルカ24:35)とあとで他のお弟子さんたちに話しています。それまではどなたか気がつかずに一緒にいました。二人はイエス様と気づいたときにその姿が見えなくなってから自分たちの「心が燃えていたではないか」(ルカ24:32)と語り合います。

.心が燃やされていたのはイエス様に側にいてくださり語りかけてくださったからだと、そのときではなく後で知りました。これも神様の御心です。わたしたちはイエス様が側にいてくださることを後になって知ることがあります。そのときは気づいていなくても確かに支えられていることがあるということです。


聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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