ヨハネによる福音書9章13〜42節〈メシアへの信仰〉

C3

2012年03月04日 22:52

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
11か月22日です。

受難節第2主日

ヨハネによる福音書9章13〜42節
_13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
_18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようなったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったというのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。誰が目を開けてくれたのかも、分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親は、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
_24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたが、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようと言うのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

_35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
_40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

〈メシアへの信仰〉
「メシア」は「キリスト」と同じ意味で「救い主」を表します。元々は「油注がれた者」です。油は香油で体に塗るためのものでこれを注ぎかけることは人間が決めたのではなく神様がご用のために人を選び出したことを表します。

生まれたときから目が見えない人がイエス様によって目が見えるようになりました。この人はイエス様が神様から遣わされた預言者だと悟ります。しかしファリサイ派のある人たちは安息日には働いてはいけないと定められた律法に違反しているとして、イエス様は罪人だと断定しました。

イエス様がなされたことは神様が関わっておられるかおられないかが議論されているわけです。

イエス様が目の見えない人を癒されたことは、生まれつき目の見えない人がこのことによって負っている困難に関わりを持たれたことです。しかし他の人はこの方が負っている困難は罪のためであってこの人自身が負うべきとし関わりを持つことを拒みます。

生まれつき目が見えない人を見えるようにすることが人を超えた業であります。この業は人が関わりを拒む(罪人と言われる)隣人の困難に関わるから始まっています。

2月最終日はRDDという日だそうです。「Rare Disease Day」の頭文字を取った略で、「世界希少・難治性疾患の日」と言うそうです。患者の方が少ない病気は治療法を研究をなかなか進めてもらえません。これは抱えている困難に関わってくれる人がおらず希望が見えない状態であると言えます。効率という人の理論で数が少ないという理由で切り捨てられてしまっていると言えます。

わたしはイエス様の注がれた油とは苦しみではないかと思います。神様はイエス様が全ての人の罪を救うキリストとして選ばれ苦しみという油を注がれました。この注がれた苦しみという油が人の苦しみにまつわる苦しみを代わりに背負わずには負われない道へと歩ませられているように思います。

わたしたちはわたしたちに注がれた苦しみという油を感じるとき見えるのではないかと思います。ファリサイ派の方にもきっと注がれていたことでしょう。律法の決まりではなくこの油を感じていれば違ったことになったのではないかと思います。

わたしたちの罪をイエス様は代わりに負ってくださっている、このことは注がれた油によって指し示されています。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
RDDのことはブログで知り合ったピーターさんのブログで知ることができました。神様が出会わせてくださったことに感謝します。
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