東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
1年です。
受難節第3主日
ヨハネによる福音書6章60~71節
_
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いていった。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63命を与えるのは、〝霊〟である。肉は何の役に立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
_
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れていきたいか」と言われた。
68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダヤ、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
〈受難の予告〉
東日本大震災から1年です。このときを世界中の人たちと覚えて礼拝に与ります。
イエス様の受難の予告を聞いた人たちは怒っています。人は誰かに期待をすると自分の希望がかなえられると約束されたかのような気になり喜びます。ところがそうではないと知ったとき、自分が思い描いていたようなものが得られないと分かったとき失望します。失望は怒りへと変わります。
イエス様は私たちの罪のために十字架に掛かり苦しみ死んでくださると約束してくださいました。これによってわたしたちの罪が神様に許されると約束してくださいました。でも人々が期待していたものとは違ったようです。
もし願いが一つかなえられるとしたら何を望むでしょう。世界平和とか自分以外のためではなくて自分だけのためという条件とします。誰かを助ける力とかいろんなことが思い浮かぶことでしょう。「自分の罪が許される」との願いはどのくらい強く願われるかと考えるとそれほど強くないと思います。
困っている人を助けたりするのに必要なものは、力や知恵等であって罪が許されることがどんなふうに役立つのかと考えるとピンと来ません。人々はいろいろな問題を解決する力や知恵を期待していたのに、与えられるものは罪が許される約束と知ったとき失望し怒りを覚えました。
イエス様は全ての人を救おうとされ、それは最後に残る一人を見つめておられることです。わたしは
福島で原発の放射能漏れを止めるために働いておられる方の記事を読んだときに、自分の罪深さに絶望的になりました。あまりにも過酷で絶望的な事態に目をそらしたくなります。
最後に残される一人を見るには私の罪は絶望的に深いです。しかしこの罪をイエス様が代わりに背負ってくださっているのであれば、わたしのような者もなんとか向き合うことができる希望が持てます。自分の罪深さのために最も苦しんでいる一人から目を背けるならば、私の信仰は何とむなしいことでしょう。
イエス様が約束してくださった許しは、見ておられるところを見ようと願うことができます。私がイエス様が触れておられるところを触れたいとの願いを持つことが許されます。これはなんと素晴らしい恵みでしょうか。私たちは罪の許しを約束されることによって絶対に必要なものと向き合うことができます。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988