降誕前第6主日 〈救いの約束(モーセ)〉

C3

2012年11月18日 21:45

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
1年8か月7日です。

2012年11月18日(
降誕前第6主日

申命記18章15~22節
18
_15あなたの神、主はあなたの中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばらない。16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。19彼がわたしに名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わないものがあるならば、わたしはその責任を追求する。20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」21あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。22その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

〈救いの約束(モーセ)〉
 イエスラエルの民の中に預言者が立てられます。聖書に出てくるのは言者でなく言者です。未来の出来事を言い当てる人ではなく、神さまの言葉を預かり人々に伝える人です。

 このような預言者が時には自分勝手なことも言うそうです。聞く人はそれをどうして見分けることができるでしょうか。聖書には預言者が語ったことが実際に起こらなければそれは勝手に語られものであると教えます。

 でもこれちょっと無理がありませんか?

 勝手な預言の場合や預言の内容が良いことが起こるのであれば問題はありません。しかし預言が正しいものでその内容が悪いものであるならば大変です。実際に起こるか起こらないか分かったときにはもう悪いことが起こってしまっているからです。安心などしていられません。

 これは言と言を混乱しているからおかしなことになります。

 例にヨナ書の物語を観てみましょう。預言者としてヨナが選ばれニネベの街へ遣わされます。彼がニネベの街で語ったことは「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」でした。これを聞いたニネベの人々は反省をして神さまに立ち返ります。そして神さまはニネベを滅ぼすことをお止めになられます。ヨナはこの結果に怒ります。まさに自分の語ったことが実現しなかったからです。

 でも彼は言ではなく言したのです。ヨナが語ったことにより神さまの思いが伝わりました。言った通りのことは現実にならなくても神さまの思いが人々に伝わりました。預言は成就(物事を成し遂げる、また、願いが叶う)したのです。

 救いの約束も言であって言ではありません。そのとおり現実になることではなく、神さまの思いが私たちに伝わることです。

 そしてヨナは自分勝手だからこそ預言者になれたと思います。彼はあまりに自分勝手であるからこそ、ニネベの人々をただそうとするなんて、彼ではなく彼を用いて神さまがお語りになっているとしか思えなかったのでしょう。もし偉人であれば何を上から偉そうにと反発されていたかもしれません。

 わたしたちの救いは、その通り現実になることではなく、そして意外なところで私たちに語られていると信じます。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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