復活節第5主日/労働聖日(働く人の日)〈父への道〉

C3

2013年04月30日 11:54

東日本大震災発生
2011年3月11日(金)午後2時46分から
2年1か月19日です。

2013年4月28日(
復活節第5主日
労働聖日(働く人の日)
ヨハネによる福音書14章1〜11節
141「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポよ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

〈父への道〉
 イエス様はご自身を「道であり、真理であり、命である」と仰られます。道は目的地へと人を導いてくれます。真理はこれを求めようとすると何事にも誠実に向きあわなければなりません。命は生物学的な生命活動という意味に限定されない存在することに意味があることを表す言葉です。イエス様が私たちと共にいてくださることにより、私たちが行くべきところへと向かっていることを、何事にも誠実に向き合って合おうとすることを、そして存在に豊かな意味があることが示されています。
 ところがお弟子さんたちはイエス様が目の前にいるにも関わらず、行くべきところが分からない、神様が分からないと言います。なぜでしょうか。
 私たちが誠実さを失う二つの場面があります。一つは自分から遠いところの出来事です。自分がよく知っている人が事故にあえばまずその人は無事かどうか、どんな気持ちかどんな表情をしているのか気になります。けれども遠くの出来事になると先ほど気になったことよりもどれだけ凄い事故なのかが気になります。仕事も身近な人を思い浮かべながらすれば誠実に向き合えますが、自分とは遠い人のために仕事していると思えば利益を優先して不誠実な仕事をしてしまうこともあります。
 もう一つは自分の身近な出来事であっても毎日のように与えられているから当たり前になっている出来事です。毎日食事を用意してくれることはとても感謝なことなのに当たり前になると感謝の気持を表すことを忘れてしまいがちです。感謝の気持ちを忘れてすることはやはり不誠実になってしまうでしょう。
 お弟子さんたちは自分のことばかり考えがちでした。それはイエス様が出会うたくさんの人たちを身近に感じていなかったからではないかと思います。夕暮れ家へ帰ろうとしている人たちに空腹のため家路の途中でひもじい思いをするだろうから何とかしたいとイエス様が思われたときも、お弟子さんたちはめいめい自分で何とかすれば良いと考えました。
 もしかするとイエス様が導こうとされる場所がたくさんの人を迎えるために用意されたところと知って不満に思ったかもしれません。みんなと同じではなく自分だけの特別な場所が良いなどと考えていたのではないでしょうか。
 またイエス様がいつも側にいてくださることを当たり前と思って、イエス様を通して示される神様では満足できなくなっているようです。特別な仕方でありありとこの目に焼きつくように見せてくれないと納得出来ませんなどと言い放っています。
 では誠実さを取り戻すためには、誰でも当てはまるような価値に目を奪われないで身近な人の出来事をもっとみるべきです。よく知っている赤ちゃんが歩けば大ニュースです。でも全く知らない人から見れば赤ちゃんが成長して歩くのは当たり前です。また、当たり前のことをそう思えなくなるためには、そうではない環境に住んでいる人と友だちになることです。そうすればいくら自分にとっては当たり前のことでも大切なお友だちにとってそうではないことであれば当たり前とは思えないでしょう。
 イエス様は宣教を通して私たちが出かけて行ってその人を隣人とすることを勧めておられます。
 でも同時に自己中心であるお弟子たちとイエス様は共に歩まれたことも事実です。ここに、聖書は誠実に生きることを素晴らしさを伝えていると同時に、なかなかそうは生きられない人たちと共に歩み続けれるイエス様を伝えています。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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